新・視力矯正日記23 『オープンダイアローグ・オンライン勉強会第2回の感想』

先日の518()19:3021:30

『オープンダイアローグについて学ぶ〜受けたいときに受けられる場をつくろう〜』の第二回の勉強会に参加しました。

 

サブタイトルは、

「日常に活かす対話の作法〜リフレクティングを知っていますか?〜」

で、

講師の方は、

オープンダイアローグ やリフレクティングなど、

対話の大切さを広める活動をされていて、

プロのカメラマンでもある、

小畑あきらさん です。

 

僕は小畑さんの対話会や読書会によく参加していて、特にトム・アンデルセンという方が産み出したリフレクティングへの深い理解と、

対話の大切さや可能性に対する想いの強さに、

いつも感銘を受けています。

 

この講座は、

講義ブレイクアウトルームでリフレクティング講義ブレイクアウトルームでリフレクティング講義ブレイクアウトルームでリフレクティング講義ブレイクアウトルームでリフレクティング質疑応答という進行で行われ、

参加者同士の対話の時間が多く設けられた、

小畑さんらしい、

対話を大切にした講座となりました。

 

しかも、

質疑応答の時間も、

もう私は充分に声を出したので参加者の質問には直接答えず、

参加者に答えてもらうという形にします、

という徹底ぶり...

 

.......

 

そして、

本編である

講義は、

リフレクティングの説明から始まりました。

 

リフレクティングとは、

「誰かの対話を聞いたり見た後で、〝それについて感想や意見を交わすこと〟を意味する。

自分自身との内的対話も含まれる。

「開かれた対話と未来」p 41訳註より転載」

(講義のパワーポイントより転載)

 

具体的な形としては、

通常の対話では、

話し手と聴き手がいますが、

オープンダイアローグ ではそこに観察者が加わり、その観察者が話し手と聴き手の対話を聴くという形で行います、

と説明されました。

 

僕が印象に残ったのは、

リフレクティングの説明の際に、

話し手の言葉を聞き手や観察者が言葉にする際は、

話し手が使った言葉を使い、

使わなかった言葉を使わないという話しがあったことです。

 

僕はこれまでにリフレクティングを学んだり、

体験する中で、リフレクティングの時間に聞き手や観察者として感想を述べるときは、

話し手が使った言葉や話の内容に縛られることなく、基本的には自由に話して良いと学び、

実践してきました。

 

そのため、

「話し手の言葉を聞き手や観察者が言葉にする際は、

話手が使った言葉を使い、

使わなかった言葉を使わない」

という説明がよく分からず、

その旨をチャットに投稿しました。

 

さらに、

質疑応答の時間に、

「オープンダイアローグ について語られる際、

よく、「問題を解決しようとしない方が問題が解決する」という発想がありますが、

僕は、抱えている悩みである問題を具体的に解決するための対話にこだわりたい、

それについてどう思われますか?」

という質問を加えた上で、

「話し手の言葉を聞き手や観察者が言葉にする際は、

話し手が使った言葉を使い、

使わなかった言葉を使わない」というのがどういう意味か、

尋ねました。

 

前述の通り、

それに対して小畑さんは直接答えず、

参加者の方で答えられる方が答えるという形になりました。

 

参加者の方の答えの中に、

「例えば小畑さんも講義の中で百貨店をデパートに言い換えて答えるという例を話されていましたが、私も自分が言った言葉を別の言葉に置き換えられて返ってきたら嫌な気持ちがする」というものがありました。

 

他にも同様に、

自分の話したことが別の言葉に置き換えられて返ってきたら嫌な気持ちがする、

とおっしゃった方がいました。

 

それらの意見を聴いているうちに、

もしかしたら講師の小畑さんは、

リフレクティングの際に聞き手や観察者は感じたことや考えたことを自由に言ってはいけないと言ったわけでなく、

話し手が言ったことを話す時は、

話し手が使った言葉を使い、

使わなかった言葉は使わない、

と、おっしゃったのかもしれないと思いました。

 

また、

講師の小畑さんは講義の後半で、

「話し手の言ったことを話す時は、

話手が使った言葉を使い、

使わなかった言葉は使わない」

ことを実践すると、

話し手は話を聴いてもらえたと感じ、

次に話をする際に勝手にまた別の話をしてくれる、とおっしゃっていました。

 

僕はそれを聴いて、

なるほど、

と思いました。

 

リフレクティングやトーキングサークルのような話手が話しているうちは黙って話を聴く、

というルールの対話会にいくつか参加しているうちに、相手が話している時に声を出して質問したくなり、その想いをある対話会でお伝えしたのですが、

そのことについて答えてくれた方が、

黙って話を聴いていると、

相手は自分をありのまま受け入れてもらえたと感じ、それは相手の存在をありのまま、

承認するような形になる、

とおっしゃったことを思い出したからです。

 

確かに承認されたと感じると、

そこに安心感を感じ、

次々と話をしたくなります。

 

でも、

やはり、

それだけでは、

僕は物足りなさを感じます。

 

「問題を解決しようとしない方が問題が解決する」

という発想については、

「これまでの医療の世界では、

医師などの医療側が患者と呼ばれる人の問題を治療して解決しよう、何とかしようという発想があったので、そのような解決しよう、何とかしようという発想を手放そうという意味で、

問題を解決しようとしない方が解決する、

という発想が生まれたのではないか?」というような回答がありました。

 

それを聴いて僕は、

なるほど、とは思いながらも、

モヤモヤとするものを感じました。

 

何となく、

そのような発想が広まることが、

具体的な問題を解決していこうという発想、

特にそれらの問題が社会にある場合に、

主体的に、人々が協力して、

それらの問題を解決していこうというを姿勢を養えず、

心の問題に置き換えるという発想に繋がるような気がするからです。

 

そのように考えていくと、

リフレクティングを発明したトム・アンデルセンさんは、

具体的な社会問題を解決することに対して、

どう考えていたのか、

気になります。

 

小畑さんもよくおっしゃっている通り、

トムアンデルセンさんは既に亡くなっており、

どのように考えていたのかは、

究極的には想像するしかないのですが...

 

皆さんはリフレクティングや、

問題を解決しようとすることと解決しようとしないことについて、

どう思われますでしょうか?

 

今回は以上です。

最後までお読み下さり、

ありがとうございました。