僕は最近、
『会話・協働・ナラディヴ』という本の読書会に参加しています。
今回の記事は、
その読書会の令和3年5月21日の回の時のことです。
『会話・協働・ナラディヴ』という本は、
「「リフレクティング・チーム」のトム・アンデルセン,「コラボレイティヴ・セラピー」のハーレーン・アンダーソン,「ナラティヴ・セラピー」のマイケル・ホワイト。
本書は,心理臨床・ソーシャルワーク領域で注目を集める「ナラティヴ・アプローチ」の三人の創始者たちが,フィンランド・ハメーンリンナで一堂に会した最初で最後のワークショップの記録である。 」(Amazonの内容紹介より)
という内容の本です。
この会では、
主催者であり、
ファシリテーター役のOさんが参加者に文章を読む箇所を割り当て、
それぞれが音読した箇所について参加者が感じたことを声に発して言葉にしていく(=トーキング・サークル)という形で進行していきます。
この回で読んだ箇所は、
p.94、3人の鼎談を聴いていた聴衆の、
「人々が多声的ないし多層的だという考え方を、セラピストとしていかに維持するかということについて考えてきました」
という言葉に対し、
「大事な質問です」
という、
マイケル・ホワイトさんの答えから始まる場面です。
僕はその場面を読んだ感想について、
マイケルさんが述べた、
「この若者の反応はすべて、反抗挑戦性障害の診断を立証するものとして読み取ることができました」という発言が嫌いだと言いました。
マイケルさんは、
あるワークショップで出会った家族の、
反抗挑戦性障害の診断を受けた15歳の少年について話をしていました。
その際に話していたのが上の発言です。
僕は精神医療については詳しく分からないのですが、
基本的に、
ある個人に生じている状況に対して病名をつける発想は嫌いです。
そのため、
「この若者の反応はすべて、
反抗挑戦性障害の診断を立証するものとして読み取ることができました」というマイケルさんの発言が嫌いだと言ったのですが、
僕の後の順番の方々の話を聴いていくうちに、
自分の勘違いに気づきました。
僕はてっきり、
この15歳の少年の振る舞いを見て、
「マイケルさんが反抗挑戦性障害の診断を立証するものとして読み取ることができ」るとジャッジしたのだと思っていたのですが、
他の参加者の方々の話を聴くうちに、
精神科医など、
ある個人に生じた状況に対して病名を付ける人たちがその少年の振る舞いを見たら、
「「反抗挑戦性障害の診断を立証するものとして読み取る」だろう」、
という意味で上記のような発言をしたのだと思うようになったことです。
マイケルさんは、
ある個人に生じている状況に対して病名をつける発想の方ではなく、
むしろ、
「しかし、「これらの反応は、彼の進取の精神に関して、何を表しているのだろうか?」という問いに触れることで、私は、この若者の人生の従属的なストーリーラインを見分ける役割を果たす立場に立つ」と続けているように、
ある個人に生じている状況に対して病名をつける発想、
とは別の道を模索している方のようです。
僕はこのマイケルさんが取り組んでおられるナラティブセラピーというものをほとんど知らなかったのですが、
この場面のマイケルさんの発言は、
ナラディヴセラピーの基本的な発想が述べられているのだと思いました。
また、
参加者の方も指摘されていたのですが、
「これらの反応は、彼の進取の精神に関して、何を表しているのだろうか?」
という発言について、
精神科医なら「症状」という言葉を使うところを、「反応」という言葉を選ぶなど、
精神医療で使われている言葉を、
ニュートラルな言葉に置き換えているところが素晴らしいと思いました。
そして、
この場面での15歳の少年の、
精神科医なら「反抗挑戦性障害」と診断する状況に、
「最著述する会話への扉を開」くものがナラティブセラピーだとしたら、
ナラティヴセラピーは、
とても未来志向で、
可能性のある対話の手法だと思いました。
僕には、
「視力矯正の不具合の不具合を抱える当事者と専門家や専門家を志している方々とが主にゆっくりと丁寧な対話を通じて視力矯正の不具合を改善するための活動や研究を当事者研究のような形で行いたい」
という想いがあります。
その発想の根底には、
「医師と患者という関係性や、
障害者、健常者という分け方を前提とせず、
何かしら生じた個人の「不具合」に対して病名や障害名をつけることなく、
不具合を抱えた当事者は、
その不具合を抱えた経験や感性を活かして、
医師などの医療の専門家は専門的な技術や知識を活かして、
お互いが対等の立場で、
共に、
その「不具合」を改善していくという問題解決のあり方=新しい医療の形はないのだろうか。」
という問題意識があります。
そのような僕の医療に対する問題意識と、
ナラティヴセラピーの理念は、
どのくらい通ずるところがあり、
どのような協働が可能なのか。
これからも対話を続けながら、
模索していきたいと思います。
今回は以上です。
最後までお読み下さり、
ありがとうございました。