新・視力矯正日記22 『東京大学病院 眼科にて、サンコンタクトレンズのレンズ作成』

本日、

東京大学病院眼科にて、

サンコンタクトレンズのレンズを作成しました。

 

本日は体調が悪く、

自分が「視力矯正の不具合を抱える当事者と専門家による当事者研究がしたい!」

と言ったり、

自分の眼の状況や作成するレンズについて、

詳しく質問をする気力や体力がありませんでした。

 

対応して下さったサンコンタクトレンズの検査員の方は、とても丁寧な方で、

快く接して頂きましたが、

やはり、

大学病院というたくさんの人が慌ただしく動いている場所で視力矯正の具合に関してゆっくりと丁寧に対話するのは、

難しいなと感じました。

 

そのような心境と、

周りの方のアドバイスに促され、

患者という立場で大学病院を受診するという不本意な状況だったことも重なり、

何という種類の、

どのくらいのカーヴ数、度数のレンズを購入したか、記録するのを怠っていました。

 

あるいは、

病院側の方から処方を提供されなかったことで、

遠慮してしまったのかもしれません。

 

記憶している限りの度数は、

①右(BC810PMW-2.75)、

②左(BC815PMW-2.00)、

一枚24000円で、

2枚合わせて税込で52800円。

 

大きな出費となりました。

 

サンコンタクトレンズは、

それぞれの眼に合わせた形にカスタムメイドできるレンズだと思うのですが、

月一で大学病院に来て検査して調整を行うだけでは、

レンズ交換可能期限である半年の間に6回しか検査交換が行えず、

自分の眼や生活に合ったレンズが作成できるのか疑問に思いました。

 

けれど、

完全に言い訳ですが、

本日は身体と心が疲れており、

妥当な判断ができませんでした。

 

もともと患者という立場で眼科に行くことが不本意で乗り気ではなかったことが心身に影響を及ぼしたのかもしれません。

 

とりあえずレンズはオーダーしたので、

教科書通りの処方で作成したレンズを、

まずは試してみたいと思います。

 

皆さんは病院で、

自分が言いたいこと、聴きたいことを、

きちんと言うこと、聴くことが、

できていますか?

 

少し情けない記事ですが、

今回は以上です。

 

お読み下さり、

ありがとうございました。

新・視力矯正日記20 『オープンダイアローグ の映画の字幕を読み合う講座に参加して〜』② 前回の記事に続いて、

先日、59日(日)、

ダイアロジカルサロンさん主催のダイアローグ を学ぶシリーズ第5回「オープンダイアローグを学ぶ」に参加した時の話の続き。

 

アメリカでは一般的に精神病が特定の個人の脳の問題としてみなされている。そのために 治療として、患者を日常生活から引き離して入院させ、脳の改善薬が投与される。 しかし、西ラップランドでは、精神病は個人と個人の間に生じる問題だと概念化されていて、 つまり問題は人間関係の中で起きていると言っている。 従って彼らの治療法は社会的なつながりを動かし、関係を立て直すことを求め、できるだけ 人々を疎外せず、そして、入院経験者の烙印を押さないように努める。」

(ダニエル・マックラー監督、

『オープンダイアローグ』フィンランドにおける精神病治療への代替アプローチ(『開かれた対話』Open Dialogue, Japanese subtitles)本編文字起こしより)。

 

精神医療についてはほとんど知らないので詳しくは分からないのですが、

一般的に、

統合失調症と呼ばれる症状が「個人と個人の間に生じる問題だと概念化」されているとしたら、人と人との関係性によって生じるとしたら、

どうしてそのを症状を投薬で改善しようとするのか、僕としては不思議な気持ちです。

 

人と人との関係性によって生じるとしたら、

人と人との関係性を改善することによって、

引き起こされている統合失調症と呼ばれる状態の改善を目指すのが普通な気がするのですが...

そのような状況になっていないということは、精神病と呼ばれる状態が、

ある程度、

脳に問題があるとされているということなのでしょうか。

 

そのような想いと、

僕が、視力矯正の不具合を抱え、

その不具合を改善したいと思って活動している中で気づき、

芽生えていった、

 

「医師と患者という関係性や、

障害者、健常者という分け方を前提とせず、

何かしら生じた個人の「不具合」に対して病名や障害名をつけることなく「不具合」のまま、例えば医師は医療の専門家として、

不具合を抱えた当事者はその不具合という苦労を抱えた専門家として、お互いが対等の立場で共に、

その「不具合」を改善していく問題解決=医療の形はないのだろうか。」

 

という問題意識は、

きっと同じような感覚(と、知性)から生じています。

 

精神医療の...というより、

精神科だけでなく、

医療の根本的なあり方について、

皆さんと対話をしてみたいという想いが強くなりました。

 

ぜひ、

そのような対話の場を築いていきたいです。

 

#視力矯正 #眼鏡 #コンタクトレンズ #眼科 #眼鏡屋 #視能訓練士 #オプトメトリスト  #医療 #オープンダイアローグ  #精神医療 

新・視力矯正日記19

『オープンダイアローグ の映画の字幕を読み合う講座に参加して〜』

 

先日、59日(日)、

ダイアロジカルサロンさん主催のダイアローグ を学ぶシリーズ第5回「オープンダイアローグを学ぶ」に参加しました。

 

内容は主に、

ダニエル・マックラー監督、

『オープンダイアローグ』フィンランドにおける精神病治療への代替アプローチ(『開かれた対話』Open Dialogue, Japanese subtitles)

https://m.youtube.com/watch?v=_i5GmtdHKTM

の字幕を読み合う、

というものでした。

 

正直言うと、

このオープンダイアローグ に関するドキュメンタリー映画は、

今まで何度視聴しても、

内容が頭に入ってこなかった作品でした。

 

でも、この講座で、

文字起こしして頂いた文章を読み合いながら、感想を話し合い聴き合っていくことで、

映画の中で語られているオープンダイアローグ や精神医療の話について、

深く理解できるようになった気がします。

 

これも、

「対話の力」でしょうか。

 

でも、

1番の収穫は、

オープンダイアローグ 創始者である、

ヤーコ・セイックラさんが臨床心理士として仕事を始めたのが、

僕が産まれた年である1981年であることを、

知ったことです。

 

普通の人が聴いたら、

「そんなことで...」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、

やはり、

自分がこの世に産まれた年、というのは、

特別なものを感じます。

 

例えば、以前、

「エコー&ザ・バニーメン『ヘヴン・アップ・ヒア』、キュアー『フェイス』、PIL『フラワー・オブ・ロマンス』など...1981年生まれの僕としては誇らしい一方で好きなアルバムはそれぞれ、『クロコダイルズ』、『セヴンティーン・セカンズ』、『メタル・ボックス』だったりする。」

https://twitter.com/ongakusugimade/status/768258726125969408?s=21

というツイートを@ongakusugimadeというTwitterアカウントで呟きました。

 

僕はポストパンクと呼ばれる時期の音楽が好きで、上記のツイートに挙げているのは、

そのポストパンクという時期の代表的なアーティストと、

それらのアーティストが発表したアルバムです。

 

3枚ともポストパンク記の名作として定評のあるアルバムで、

ストパンク好きの僕としては、

それらのアルバムが自分が産まれた1981年に発表されたことが、

小さな誇り(というより喜び...)となっています。

 

僕にとって音楽はとても大事なものです。

ストパンク期の音楽やアーティストやアルバムもとても好きで大切にしており、

僕が拘っているものでもあります。

 

ヤーコ・セイックラさんが臨床心理士としての仕事を始めたのが1981年という僕が産まれた年であることが嬉しかったのは、

それだけ今、オープンダイアローグというものに関心があり、

それ以上に「臨床心理士」という職業に憧れがあるからだと思います。

 

視力矯正の不具合を改善するための方法として、

視力矯正の不具合で悩んでいる当事者と専門家や、専門家を志している方とが、

主にゆっくりと丁寧な対話を行いながら視力矯正の不具合を改善していく活動や研究を当事者研究のような形で行うことを提案しているのも、

対話によって色々な問題が解決できるのだということを信じているのに加えて、

僕の対話性のある社会への憧れの表れかもしれません。

 

皆さんは医療の現場に対話があったらどう思われますか?

 

あるいは、

対話性のある社会というものに対して、

どう思われますか?

 

今回は以上です。

最後までお読み下さり、

ありがとうございました。

新・視力矯正日記18 『ペタゴーについて』

本日、Facebookでたまたま見つけた、

『~デンマークに存在する対人専門職「ペタゴー」シリーズ~考えの根幹「民主主義教育」に迫る!~』という講座に、

急遽参加しました。

 

参加方法はズームによるオンライン会議です。

 

参加した理由は、

以前からデンマークの対話型教育に関心があり、オープンダイアローグ発祥の地であるフィンランドと同じように北欧の国ということで、恐らく北欧諸国では対話というものが人々の間に根づいているのだろうなと思い、

その辺りのことについて知りたいと思ったからです。

 

講座の形式としては、

主に講師の方が講義を行い、

残りの時間でチャット欄に書かれた参加者の質問に答えていく、

というものでした。

 

チャット欄に書いた僕の質問が読まれた時点で1度マイクのミュートを外し、

チャット欄で書いた質問を口頭で話して良いか尋ねましたが、

それに対しては、

「今日は全ての人の質問を口頭で聴いて答えていたら時間が足りなくなってしまうため、

今回はチャット欄を読み上げるという形でお願いします」

、ということでした。

 

今思えば、

時間の関係上仕方がないとはいえ、

この講座自体は「対話型」ではないのだなと思いました。

 

そう考えると、

少し残念な気持ちがしました。

 

講座の最初は対人支援専門職であるペタゴーについての説明が行われました。

ペタゴーは、

「一人一人の個性を見抜いて、一人一人に合った支援を行う」「人と向き合うプロ」

と、ペタゴーという仕事の特徴を語って下さり、

それらの表現が力強く印象的でした。

 

ペタゴーの仕事の意義は、

11人の自律心を育むことで、

仕事内容としては、

支援対象となる当事者が抱える課題を、

専門家同士と連携して解決していく、

というものでした。

 

仕事内容を聴いて、

日本で言えば社会福祉士ソーシャルワーカー)のようなものかと思ったのですが、

参加者の方からのそのような指摘に対して、

講師の方はソーシャルワーカーとは少し違うとおっしゃっていました。

 

日本ではペタゴーに該当する仕事や概念がないらしく、

説明するのがいつも大変みたいです。

 

そんな中、

僕は以下の内容の自己紹介と質問を投稿しました。

 

「東京都在住の井口と申します。

視力矯正の不具合を抱えていて悩んでいます。

その視力矯正の不具合を改善するために、

専門家の方々と主にゆっくりと丁寧な対話を通じて不具合を改善していきたいと思い、

具体的な形として、

フィンランドの精神医療で取り入れられているオープンダイアローグ のような対話の形に興味を持っています。

オープンダイアローグはフィンランドの話ですが、以前からデンマーク の対話型の教育にも関心があり、

北欧諸国に根づいていると思われる対話的な風土について知りたいと思い、

本日参加しました。

よろしくお願いいたします。」(=自己紹介)

 

【質問】

東京都在住の井口と申します。

視力矯正の不具合を抱えていて悩んでいます。

その視力矯正の不具合を改善するために、

専門家の方々と主にゆっくりと丁寧な対話を通じて不具合を改善していきたいと思い、

具体的な形として、

フィンランドの精神医療で取り入れられているオープンダイアローグ のような対話の形に興味を持っています。

 

今日ペタゴーのお話を聴いて、

当事者が抱える課題を専門家同士が連携して解決していくという意味で、

視力矯正の不具合を解決していく上でも、

ペタゴーという職業やシステムは良いなと思ったのですが、

どのように思われますでしょうか?

(=質問)

 

それに対して講師の方は、

良いと思います、

と賛成してくださり、

特に「連携」よりも、

同じ目的・同じ責任を持つ、

という意味を含む「連帯」

が大切だとおっしゃっていたのが本当に印象に残りました。

 

僕はチャット欄に、

「同じ目的、同じ責任を持つ「連帯」という発想が大切だというお話、

とても参考になり、同時に羨ましく思いました。

日本にはその辺りの意識が足りないのかもしれないですね。。」

という投稿をしたのですが、

正に、

日本にはこの「連帯」という意識が足りないのではないかと思い、

感動的ですらありました。

 

ただ、日本は時間に厳しかったりして、

その分、責任を取るということ自体の負担が大きいなどの社会的な環境もあるので、

一概に意識の問題にはできないとも講師の方は補足されていました。

 

いずれにしても、

このペタゴーという仕事や概念は本当に良いなと思いました。

 

ぜひ日本にも導入して欲しいと思いましたが、基本的に個人の自律心を育むペタゴーという仕事や概念は、

自律よりも依存的な関係が良いとされる傾向にある日本では、なかなか受け入れられるのが難しいだろうと講師の方はおっしゃっていました。

 

その話を聴いて僕は、

 

『本日はとても勉強になりました。

ペタゴー的な考えがどうして日本で受け入れられないのか、

今後はその辺りの理由についても学ぶ機会がありましたら幸いです。』

 

とチャット欄に書き込みました。

 

今後もデンマークの民主主義についての講座を開いていくそうで、

次回は正にこの辺りの事情について触れるそうなので、

次回以降も楽しみにしています。

 

皆さんはペタゴーという仕事について、

どう思われますか?

 

【追記】

僕はペタゴーという仕事や概念、

専門家同士が連携して問題解決していく、

という部分について関心があったので、

民主主義との関係性については、

きちんと聴ききれていませんでした。

 

そのため、

この記事ではペタゴーという仕事や概念について充分に説明しているとはいえず、

分かりづらいかもしれないのですが、

講師の方は民主主義との関係性についても力を入れて丁寧に説明して下さいました。

 

その点は申し訳ないのですが、

ご了承頂けましたら幸いです。

 

今回は以上です。

 

最後までお読み下さり、

ありがとうございました。

新・視力矯正日記17 『オープンダイアローグ・オンライン勉強会第1回の感想』

2021420日に行われた、

オープンダイアローグについて学ぶ〜受けたいときに受けられる場をつくろう〜の、

1回のセミナーに参加しました。

 

講師を担当した長井雅史さんは、

慶應義塾大学SFC研究所で研究員の仕事をされながら、

「自然と共にある暮らしを探究・実践しながら、コーティングや対話を 通じて人や組織の変容、コミュニティづくりに携わ」(セミナー申し込み時に記載されていたプロフィールより)っておられるお方です。

 

実を言うと以前、

長井さんは僕に何度かコーチングをして頂いていたお方で、

長井さんが現在住んでおられる千葉県いすみ市や、以前住んでおられた鎌倉でコーチングをして頂いた日々は懐かしく、

良い思い出です。

 

セミナーは、

主に長井さんが共著で出されている『対話のことば オープンダイアローグに学ぶ問題解消のための対話の心得』の解説を中心に、

zoomのセッション)ルームでの参加者同士の対話と質疑応答を交互に行いながら進められていきました。

 

今回の記事では、

セミナーの中でも最も印象に残った話について書きたいと思います。

 

それは、

「専門性」についての話です。

 

オープンダイアローグを行う上での心得の1つに、

専門性を忘れる、

というものがあり、

そのような話をされた際に、

僕は専門性と関係の対等性についてお聞きしたいと思い、

以下の投稿をチャット欄に行いました。

 

「【質問】オープンダイアローグでは、

専門性をなくして対等な関係で話すことを目指されている印象があるのですが、

僕の場合は、対話自体は対等な関係を求めつつ、 同時に、

視力矯正の専門家の方々の専門性も求めています。

 

対話自体は対等な関係を築き、

専門性も求めるというのは、

もしかしたら難しいことかもしれないのですが、

オープンダイアローグでは、

或いは長井さん自身は、

専門性と対話をする中でのお互いの関係の対等性については、

どう考えられているのでしょうか?

 

この投稿に対して口頭で言葉を付け加え、

それに対して長井さんに次のようなお答えを頂きました。

 

「よく、専門性を忘れるという表現を「専門性のヨロイを脱ぐ」と表現されますが、僕は専門性そのものも「1つの声」だと思っているので、

専門性自体を無くす必要はないと思っていて、

専門家は自分の専門性に基づいて意見を述べても良いと思う。

一般的に問題となっているのは、

1つの専門性が正しいとされていて、

その正しい専門性を主張して他の考えや価値観を聴かなかったり受け止めない=排除するのは「モノローグ」であり、

「ダイアローグ」ではないのでそれは良くないと思う」(長井さんのお答えを僕の記憶で再構成しているため、もしかしたら長井さんから頂いた回答と違う部分もあるかもしれませんが、僕はこのような内容として受け止めました)。

 

それを聴いて僕は、

「モノローグ」と「ダイアローグ」の違いという、とても基本的な話を、

初めて「腑に落ちた」という感覚で理解できたような気がしました。

 

そう考えると、

「腑に落ちた」と感じるまで物事を理解するには、

何となく本を読んだり、

授業や動画で話を聴いたりするだけでなく、

「対話」=「ダイアローグ」という営みが必要なのかもしれない、

と改めて感じました。

 

そして、

このように考えると

普段、

医師と患者が出会う診察室はもちろんのこと、

専門家と話をする、

あらゆる場面で、

「ダイアローグ」を感じる場面は本当に少ないと思います。

 

皆さんは専門家の方と話をしているとき、

「ダイアローグ」、

つまり、

「対話をしている」

と、感じるときはありますか?

 

今回は以上です。

最後までお読み下さり、

ありがとうございました。

新・視力矯正日記16 『三角の対話、オープンダイアローグのセッションに参加した感想』

皆さん、

こんにちは!

 

今回は、

前回お伝えしたオープンダイアローグという対話の手法のセッションに参加した際の感想など、ご報告ができればと思います。

 

正確には僕が参加したのは、

「三角の対話」という形の対話で、

話し手と聴き手の2者間の話を、

もう1人の第三者が黙って聴き、

2者間の話が終わったら感じたことを話す、

というものでした。

 

これはオープンダイアローグ で言えば、

リフレクティングの部分に当たると思います(リフレクティングについては今の時点では深く理解していないので、とりあえずセッションに参加した際の話を続けます)。

 

今回のセッションは、

僕と、

clubhouseで知り合った、

医師をされているHさん、

そして、

オープンダイアローグや三角の対話を広める活動をされているOさん、

3名で行いました。

 

方法はzoomを使ったオンラインによるビデオ通話です。

 

前回の記事(https://shiryoku-kyousei.com/2021/05/05/newdiary-15/)でお伝えしたように、

僕には、

「視力矯正の不具合を専門家の方々と協力して改善していく活動をオープンダイアローグ のような形で行ってみたい」

という想いがあります。

 

このような話をclubhouseのあるルームでお話しした際、

僕が「対話」という言葉を使い、

大切にしていることが印象に残ったというモデレーター(ルームを立ち上げた司会者やファシリテーターのような役割)の方から、

オープンダイアローグ に取り組み、

広げている活動をされているOさんを紹介して頂いたのが、

今回のセッションが実現したキッカケです。

 

セッションはまず、

お互いの自己紹介から始まりました。

 

形としては、

Hさんが私の他己紹介を行い、

Hさんが話終わった後に、

僕がその話を聴いた感想を述べるというものでした。

 

その際にとても印象的だったのは、

Hさんが僕が抱えている視力矯正の不具合の悩みや、

いつも通っているネットカフェから出入り禁止を受けたことについて、

Hさん主催のルームで相談していることを、

大筋とはいえ、

丁寧に把握されていたことです。

 

視力矯正の不具合自体についても、

正確ではないとはいえ、

僕が悩んでいる状況についてかなりの程度、

把握して頂いていることに感銘を受けました。

 

次は、

HさんがOさんを他己紹介

Oさんを紹介する際も、

HさんはOさんの経歴や今行っている活動について、

かなり丁寧に把握されているという印象を受けました。

 

HさんがOさんの紹介を終えた後、

同じように僕がその紹介を聴いた感想を述べ、続いてOさんが感想や付け加えたいことなどを述べました。

 

次に、

今回のセッションは僕のことについて話し合う、ということだったので、

僕の視力矯正の不具合やネットカフェから出入り禁止を受けたことについて、

話をする時間を頂きました。

 

1通り話し合えた後、

Oさんから、

「今、人生で何が起こっているのでしょうか?」

という質問を頂き、

更に深い部分について、

僕が話を続けました。

 

次に僕がzoomのカメラと音声をミュートにし、

Hさん、Oさんが僕の話を聴いた感想をそれぞれ述べました。

 

そして次にHさん、Oさんの話を聴いた後、

僕が2人の感想を聴いた上で付け加えたいことについて述べました。

 

その際、

僕がHさんが話した内容について、

「重要なことがあるんですけど」、

と、Hさんが話した僕の感想について憤りを示しつつ、話しができたのは良かったと思います(このように三角の対話、リフレクティングという対話の形式には、話を聴いて感じた憤りなど、通常では言いづらいことが言いやすくなるという効果があります)。

 

その後更にHさんが感想を述べ、

Oさんが感想を述べて、

という風に、

そのように話をするのと聴くのを繰り返しながら、対話を深めていきました。

 

その際に、

Hさんが僕の話を聴いた感想として、

尊厳、や、

魂の叫び、という言葉を使って下さったこと、

僕のことをきちんと把握してくださっていることに、

とても感謝の想いが生じてきました。

 

次に

Oさんが、

フィンランドで生まれたオープンダイアローグの経緯について述べました。

 

特に印象的だったのは、

オープンダイアローグ はお互いの話を「純粋に聴く」ことを大切にしているという点です。

 

しかし、

「純粋に話を聴く」ということが難しいらしく、そのためにオープンダイアローグ の前身であるニード・アダプテッド・アプローチという方法も広まらなかったらしいです。

 

どうして「純粋に話を聴く」というのが難しいのか、

僕がOさんに理由を聴くと、

専門家が自分の専門性を忘れることができない点や、

人々がヒエラルキーというものから逃れられないことが、

「純粋に話を聴く」ということを難しくしているのではないかということでした。

 

ヒエラルキー...

 

人間という生き物は、

人をランク付けすることをやめることができないという話をよく聴きます。

 

精神医療にしても、

視力矯正の不具合にしても、

主に医療者との関係において、

特に医療者のヒエラルキーの頂点に位置する医師との対話が問題になっていると思うのですが、

偏差値教育における競争の勝者でもあり、

社会的な地位が高い医師という職業に就いている人々にとって、

ヒエラルキーという概念は捨てづらいのかもしれません。

 

僕にしても、

人をランク付けしたり、

自分を優位な立場に置きたいという欲望から、どれだけ逃れられているのかは分かりません。

ヒエラルキーを無くすことが良いことなのか、悪いことなのかも分かりません(音楽で言えば、やっぱりビートルズマイルス・デイビスは素晴らしいし、名盤ランキングも大好きです)。

 

それだけに、

「純粋に人の話を聴く」ということは、

ものすごくシンプルな発想ではありますが、

実現するのは難しいのだと感じます。

 

今回のセッションで僕が感想を述べる際、

HさんやOさんにも伝えたことですが、

僕が自分の切実な話をかなり深い部分まで、じっくりと丁寧に話ができた、

この三角の対話、オープンダイアローグという対話の形式や手法は、

本当に素晴らしいものだと思いました。

 

本当に素晴らしく、

贅沢な時間でした。

 

色々と障壁はあるみたいなのですが、

この三角の対話やオープンダイアローグという対話の思想や手法が、

人々の間に広まることを、

心から願っております。。。

 

皆さんは「純粋に話を聴く」ということについて、どう思われるでしょうか?

 

また、ヒエラルキーというものから、

人々はどれくらい自由になると思われるでしょうか?

 

良かったら感想など、

教えて頂けましたら幸いです。

 

よろしくお願いいたします! 

 

2021.04.03

新・視力矯正日記15 『視力矯正の不具合を改善するためのオープンダイアローグ 』

このブログでは何度もお伝えしていることですが、

僕は視力矯正の不具合を抱えていて悩んでおり、

その視力矯正の不具合を改善することに協力して下さる専門家の方々を探しています。

 

視力矯正の不具合については、

詳しくは、このブログの最初の記事である、

(『new視力矯正日記①-同じ悩みを抱えている方々、専門家の方々へ』

https://shiryoku-kyousei.com/2021/01/30/newdiary-01/))

を、ご覧頂けましたら幸いです。

 

そして、

その視力矯正の不具合を改善するため、

視力矯正の不具合を抱える僕のような当事者と専門家の方々が、

主にゆっくりと丁寧な対話を通じて、

視力矯正の不具合を改善するための活動や研究を行いたいと考えています。

 

具体的な方法としては、

色々な方法が考えられるのですが、

例えば、

精神医療の領域で取り入れられている、

オープンダイアローグという対話の手法が何かヒントになるのではないかと考えています。

 

オープンダイアローグというのは、

Wikipediaには次のように書いてあります。

 

オープン・ダイアローグ英語: Open Dialogue)とは、統合失調症に対する治療的介入の手法で、フィンランドの西ラップランド地方に位置するケロプダス病院のファミリー・セラピストを中心に、1980年代から実践されているものである[1]。「開かれた対話」と訳される[2]。統合失調症うつ病引きこもりなどの治療に大きな成果をあげており[3]、発達障害の治療法としても期待されている[4]。」(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/オープン・ダイアローグ)

 

その手法やルールに関しては、

 

  • 本人抜きではいかなる決定もなされない。
  • 依頼があったら24時間以内に、本人・家族をまじえて初回ミーティングを開く。
  • 治療対象は最重度の統合失調症を含む、あらゆる精神障害をもつ人。
  • 薬はできるだけ使わない。
  • 危機が解消するまで、毎日でも対話をする。
  • テーマは事前に準備しない。スタッフ限定のミーティングなどもない。
  • もちろん幻覚妄想についても突っ込んで話す。
  • 本人の目の前で専門家チームが話し合う「リフレクティング」がポイント。
  • 治療チームは、クライアントの発言すべてに応答する。

 

と書いてあります。

 

少し分かりづらいのと、

主に精神医療の領域で取り入れられていることもあり、

僕自身の言葉でシンプルにお伝えしますと、

 

当事者と、

医療者などの専門家、

家族などの関係者が対等の立場で、

当事者が抱える問題を解決するための対話を行う、

というものだと把握しています。

 

そのようなオープンダイアローグの発想の根底にある思想と、

僕が医療に対して抱いている、

「医師と患者という関係性や、

障害者、健常者という分け方を前提とせず、

ある個人に生じた「不具合」に対して病名や障害名をつけることなく「不具合」のまま、例えば医師は医療の専門家として、

不具合を抱えた当事者はその不具合という苦労を抱えた専門家として、お互いが対等の立場で共に、

その「不具合」を改善していく問題解決=医療の形はないのだろうか。」

という問題意識は、

どこか通じるところがあると思います。

 

精神医療の領域と、

視力矯正では、

分野がだいぶ違うので関わる専門家の方々も関係者も、

解決するにあたって取り組む内容も異なるとは思いますが、

根底にある発想や問題意識、

そして、

対話を大切にしようという想いは僕と同じだと思います。

 

皆さんは、

このようなオープンダイアローグ という対話の手法や発想について、

どう思われますでしょうか?

 

よろしければご感想など、

聴かせて頂けましたら幸いです。

 

よろしくお願いいたします。