新・視力矯正日記29 『オープンダイアローグ・オンライン勉強会第4回の感想』

68()19:3021:30に行われた、

『オープンダイアローグについて学ぶ〜受けたいときに受けられる場をつくろう〜』の第4回の勉強会について、感想を書きたいと思います。

 

この日は他に用事があり、

後で録画を視聴した際の感想になります。

 

サブタイトルは、

当事者研究とオープンダイアローグ」

で、

講師の方は、

京都府立大学文学部准教授で、

ASD(自閉スペクトラム症)ADHD(注意欠如・多動症)を診断されたご自身について、

文芸作品を創作するように書かれた、

『みんな水の中』(未読)という本を出されている、

横道誠さんです。

 

今回取り上げられている当事者研究については、

僕も興味があり、

これまでに色々な本を読んだり、

イベントに参加したり、

実際に当事者研究を行なっているグループにも参加してきました。

 

そのため、

当事者研究についての概要は知っていましたが、

まずは定義について、

改めて調べてみました。

 

けれど、

 

当事者研究(とうじしゃけんきゅう)は、北海道浦河町にあるべてるの家浦河赤十字病院精神科ではじまった、主に精神障害当事者やその家族を対象としたアセスメントとリハビリテーションのプログラムであり、その構造はSST認知行動療法心理教育ストレス脆弱性モデルストレングスモデルナラティブアプローチスキゾフレニクスアノニマスなどを基礎としていると批評されている。一方で、その主体はあくまで「当事者」であり、「研究」に軸があるため、専門家や医療者による支援アプローチとは一線を画しているともされている。」(Wikipedia

 

という形でWikipediaに書いてあり、

一言で分かりやすい形では書いてありませんでした。

 

横道さんの講義でも、

 

【「当事者研究では、当事者がかかえる固有の生きづらさ——見極めや対処が難しいさまざまな圧迫感(幻覚や妄想を含む)、不快なできごとや感覚(臭いや味、まわりの発する音や声など)、その他の身体の不調や症状、薬との付き合い方などの他、家族・仲間・職場における人間関係にかかわる苦労、日常生活とかかわりの深い制度やサービスの活用レベルまで、そこから生じるジレンマや葛藤を、自分の大切な苦労と捉えるところに特徴がある。そして、その中から生きやすさに向けた「研究テーマ」を見出し、その出来事や経験の背景にある前向きな意味や可能性、パターン等を見極め、仲間や関係者の経験も取り入れながら、自分らしいユニークな発想で、その人に合った自助——自分の助け方や理解を創造していくプロセスを重んじる」

 

向谷地生良2020)「当事者研究とは——当事者研究の理念と構成」 当事者研究ネットワーク(https://toukennet.jp/?page_id=56 2020611日公開)】

 

という文章を引用して紹介しており、

短く、一言で書いてある定義が見つからないため、

ここではシンプルに、

「当事者が自分自身について研究すること」

という形で理解したいと思います。

 

まず、

横道さんたちが行っているオンラインのオープンダイアローグ研究会とオープンダイアローグ との違いについて、

主に、

オープンダイアローグ の7つの原則を用いて、

説明されていました。

 

①即時対応

②社会的ネットワークの重視

③柔軟性と機動性

④チームとして責任を持つ

心理的連続性

⑥不確実性に耐える

⑦対話主義

 

この中で⑥⑦については、

横道さんの行っている研究会では共通している、

ということでした。

 

①の即時対応については、

ボランティアでやっているため難しく、

②社会的ネットワークの重視については、

本来はクライアントの家族や友人などを巻き込んでいくが、そこまでできてきいないこと、

③柔軟性と機動性、

④チームとして責任を持つ、

については本格的に行っているオープンダイアローグ に比べれば少し甘く、

心理的連続性についても、

イチゲンさん、つまり、

一回だけ参加する人の存在や、

もし参加しても他にも参加者がいるので順番が回ってこないなどの理由で、

横道さんのグループでは難しくなってしまうということでした。

 

次に、

当事者研究とオープンダイアローグの比較について。

 

オープンダイアローグ、

当事者研究ともに、

「専門家と当事者が対等」、

ポリフォニー」(多声性)

という点が共通しており、

当事者研究研究においては、

「仲間」を重視している点が異なるということでした。

 

この、

「仲間」を重視する、

という点については、

個人的に心を揺さぶるものを感じました。

 

そして、

ナラティヴセラピーのような、

クライアントが一方的に新しい物語を歩むように導かれることと比較して、

オープンダイアローグと当事者研究は、

共同体を巻きこむ仕方で

 当事者が新しい物語を生きなおすことを促進する」点を強調されていました。

 

僕も、

一方的な関係でなく、

対等な関係を目指しているので、

この部分も心に響きました。

 

でも、

この講座の中で1番心に響いて感銘を受けたのは、

自助グループの理論では、

専門家の語る専門的な知識だけが知識ではなく、

当事者が語る体験的な知識は、

(専門家の語る)専門的な知識に匹敵するほどの重みがあるということが言われている」

、と、

おっしゃり、

横道さんはその考えを支持されている、

と話されていたことです。

 

特に、

上のような自助グループの考えを批判する専門家の方々に対して、

「それは間違っていると思います」

というような表現で主張されていたことに、

力強さを感じました。

 

僕には、

視力矯正の不具合で悩んでいる当事者と専門家や、専門家を志している方とが、

主にゆっくりと丁寧な対話を行いながら視力矯正の不具合を改善していく活動や研究を当事者研究のような形で行いたいという想いがあります。

 

その発想の根底には、

「医師と患者という関係性や、

障害者、健常者という分け方を前提とせず、

何かしら生じた個人の「不具合」に対して病名や障害名をつけることなく、

不具合を抱えた当事者はその不具合を抱えた経験や感性を活かして、

医師などの医療の専門家は専門的な技術や知識を活かして、

お互いが対等の立場で、

共に、

その「不具合」を改善していくという問題解決のあり方=新しい医療の形はないのだろうか。」

という問題意識があります。

 

その問題意識は、

自助グループの理論として紹介されていた、

「当事者が語る体験的な知識は、

(専門家の語る)専門的な知識に匹敵するほどの重みがある」

という発想と通ずると思っています。

 

そのため、

オープンダイアローグ 当事者研究の思想や実践が広がっていき、

様々な専門家の方々とも

お互いを尊重し合える関係を築き、

対話が行えるような社会になっていけばと願っています。

 

......

 

プライバシーに関わるので記事には書けないのですが、

講座の中で行われた当事者研究のデモンストレーションも、

とても興味深い内容のテーマについて話されていました。

 

そして、

この日はリアルタイムで参加できなかったので当事者研究の実践にも参加できなかったのですが、

この講座を録画で視聴しながら、

無性に当事者研究がやりたくなってきました!

 

皆さんには、

主にご自身の困りごとで、

研究してみたいテーマはありますか?

 

また、

「当事者が語る体験的な知識は、

(専門家の語る)専門的な知識に匹敵するほどの重みがある」

という考えについて、

どう思われますでしょうか?

 

今回は以上です。

 

最後までお読み下さり、

ありがとうございました。

新・視力矯正日記28 『令和3年5月16日(日)オンライン講演「投票率85%デンマークと日本の教育の違いとは?」を視聴して』

「令和3516日(日)にオンラインで開催された、「投票率85デンマークと日本の教育の違いとは?」の動画を視聴した感想について書きたいと思います。

 

今回の講演は、

日本とデンマークの教育の違いについて、

デンマークは個性を尊重し、

完全な個人主義の国だと強調するところから始まりました。

 

まず、何より大きく違うこととして、

 

教育の到着点が違う、

日本は認知能力を重視し、

デンマークは非認知能力を重視する。

 

日本は数値化した目標や学力を求め、

デンマークは非認知能力、社会で生きていくために必要な力を養う。

 

日本ではテストの点数を取るための横並びの授業が行われ、

デンマークは、遊びながら、学びたいと思う仕掛けをつくる。

 

デンマークでは、

学びの黄金サイクルを大切にしている。

自発的な好奇心が尊重され、

体験経験学び能力と進んでいく。

そして、非認知的能力=社会で必要な能力に軸足を置いている。

 

投票率が低い理由については、

 

日本では子どもを手助けすることが多く、

それが子どもの自立を妨げる。

それが低い投票率に繋がるのではないか。

 

ある具体例を取り上げて、

ペタゴー(保育スタッフ)はどうするか?

 

具体例

《遊びの時間が終わってもおもちゃを離さない。》

日本ならルールで決まっているから、

遊びの時間以外におもちゃは触ってはダメ、と言う。

デンマーク  では、

「ルールを決めるときに言えば良かったのに」

「もう1回みんなで話そうか」と、

対話を促し、

決して全否定しない。

 

遊びのルールについて対話の場を作る。

「実は私も遊びたかった」という意見が聞き出せるかもしれない。

 

そのような経験から、

自分の意見が少数であっても影響を与えることができる。

無力感を植え付けさせない。

 

日本には無力感が存在し、

それが低い投票率につながるのではないか。

 

デンマークでは社会に影響を与えるという成功体験を通じて自己肯定感を養い、

それが高い投票率につながるのではないか。

 

以上、

高い投票率と教育が関係しそうな部分に焦点を当てて、まとめました。

 

投票率が高いことが良いことなのかは置いておくとして、

デンマークでは、

対話を尊重し、人々の中に対話というものが根づいていることが羨ましいなと感じました。

 

また、

対話を尊重していることが、

自己肯定感を育み、

高い投票率につながっているという話は、

とても興味深いと感じました。

 

ただ、決して選挙の投票率が高いことが、

良いことだとは思いませんが...

 

対話を重視しているデンマークのような教育を受けていたら、

自分の人生も社会環境も、

だいぶ違っていたと思います。

 

そして、これから対話のある社会に変われば、

今、目の前に広がる現実は、

きっと今とはだいぶ違ったものに変わっていくだろうと思います。

 

皆さんは、

対話のある社会が実現したら、

今、目の前に広がる現実は、

どんな風に変わっていくと思いますか?

 

僕個人としては、

対話というものの形骸化も気になっています。

 

今回は以上です。

最後までお読み下さり、

ありがとうございました。

新・視力矯正日記27 『オープンダイアローグ・オンライン勉強会第3回の感想』

先日の525()19:3021:30

『オープンダイアローグについて学ぶ〜受けたいときに受けられる場をつくろう〜』の第3回の勉強会に参加しました。

 

サブタイトルは、

NVC〜非暴力コミュニケーションを日常に活かす」

で、

講師の方は、

NVCのつどいを主宰されている、

有吉正樹さんです。

 

有吉さんは、

この連続講座の中で、

唯一面識のない講師の方です。

 

NVCについては、

これまでに何度かワークショップに参加したことがあり、

ニーズカードというものを使いながら、

お互いのニーズについて探っていくコミュニケーションのあり方が印象的でした。

 

ニーズ、については、

僕が今、

対話という営みの中で、

最も大切にしているモノの1つです。

 

その理由は、

僕が今求めているのは、

ある個人が抱えている問題を、

対話によって解決するという「問題解決」であり、

「問題解決」のためには、

問題を抱えている当事者が、

どうしていきたいか=ニーズ

を知る必要があるからです。

 

そのため、

ニーズを知るという点に着目して、

講座に参加していました。

 

この日のタイトルは、

「口喧嘩をつながりに変える会話術」ということで、NVCの入口を扱うということでした。

 

講義は、

カップルの口喧嘩を題材に

 

進められていき、

男性の方がパートナーに映画を観に行こうと誘っている場面で、

断られているversionと、

誘いが受け入れられているversionが紹介されました。

 

そして、

誘いが受け入れられている会話は、

お互いの願い=ニーズを満たす方法を共に創造する形になっている、

と説明されていました。

 

僕はそのカップルの会話と、

有吉さんの説明を受けて疑問が湧き、

次のような質問をしました。

 

「例えばNVCのような対話の手法を学んでいる人と、そのような対話の手法を全く学んでいない人同士では、お互いのニーズを満たし合うようなコミュニケーションは成立するのでしょうか?」

 

それに対して有吉さんは、

それに関しては講座の後の方で、

「銃弾を花束に変える方法」という形でお伝えするので、

そのお話が参考になるのではないかとおっしゃいました。

 

次に、

自分の願いを知るワークを行いました。

 

1つ目は、

エクササイズ1として、

「だれかとのやりとりでイライラしたことを思い出」

すことから、自分のニーズを知るワーク。

 

その後、

私たちの世界で行われるとされる懲罰的世界観と、

NVCの基本の型である修復的世界観の説明、

 

エクササイズ2として、

お互いにお互いのニーズを知り合うワーク。

 

そして、

「銃弾を花束に変える方法」の説明。

つまり、

相手の暴力的な言葉=銃弾、

に対してニーズを推測し、

それを言葉にして投げかける=バラの花束に変える方法について説明がされました。

 

この点に関しては、

理屈は分かっても、

ニーズを推測することと、

銃弾をバラの花束に変えて相手に投げかける習慣がないと、

その状況に遭遇した時は銃弾に屈してしまい、丁寧な対話を諦めてしまう可能性もあるなと思いました。

 

また、

最近、

よく利用しているネットカフェから出入り禁止を受ける、

という出来事があり、

一方的に銃弾を打ち込まれたまま、

対話を拒絶されてしまっている状況に遭遇しました。

 

そのような対話を拒絶されている状況においては、

どのようにコミュニケーションが行える可能性があるのか、

追究してみたい気がしました。

 

次に、

エクササイズ3として、

漫画『鬼滅の刃』の最後のボスキャラである、

鬼舞辻󠄀無惨のニーズを知るワーク。

 

「黙れ 何も違わない 私は何も間違えない 全ての決定権は私に有り 私の言うことは絶対である お前に拒否する権利はない 私が正しいと言った事が正しいのだ 」(講義のスライドからの転載した鬼舞辻󠄀さんの台詞)。

 

NVCには、

「暴力とは本当の願い(=ニーズ)の悲劇的な表現である。」

という考え方があるそうなのですが、

鬼舞辻さんのニーズは何か、

考えてみると、

超暴力的で恐ろしさを感じてしまう鬼舞辻󠄀さんの言動にも、

自分の中にもあるニーズと同じようなものから生じているのかもしれないなと、

思うことができました。

 

今回の講座を通じて、

お互いのニーズを尊重し、

知ろうとするNVCのコミュニケーションの方法や世界観は、

お互いの気持ちを理解し合うために、

とても有効な対話の手法であり、

姿勢だと感じました。

 

手段では対立が起きるが、

ニーズでは対立は起きない、

と、NVCの世界観では考えられているように、

今、

目の前の問題を乗り越えていくため、

人々と協力していく中で、

お互いのニーズを尊重し合いながら、

お互いのニーズを満たし合う、

素晴らしい解決策を考えていきたいと思います。

 

皆さんの本当のニーズは何ですか?

 

今回は以上です。

 

最後までお読み下さり、

ありがとうございました。

新・視力矯正日記26 『対話性についての対話』

いつも参加させて頂いている、

りすにんぐファームさん主催のお話会の、 

523日(日)の会に

参加した時のことについて、

記事を書きたいと思います。

 

日曜日はいつも、

「お互いにただただお話を聴く会」が行われていますが、

523日(日)のお話会は、

5日曜日のスペシャDAYということで、

「対話性について対話的にはなす会」が行われました。

 

以下、

内容について、

りすにんぐファームさんのメールマガジンから引用します。 

 

「「オープンダイアローグ」や「未来語りのダイアローグ」の基盤となっている『対話性』に関して、参加者それぞれの視点から声を重ねていく場になればと思っております。『対話性』に関して、あまりわからないと感じる方も、他の方の視点を聴きながら、その場で感じたことを発言して頂けます。

 

ここでの『対話性』は、オープンダイアローグ、未来語りのダイアローグの関連書籍、対話の実践ガイドラインなどに記載されていることや、

 各種研修で、講師から語られた言葉や資料、または、それらに関してご自身が感じられたことが含まれると捉えております。」(りすにんぐファームのメールマガジンより)。

 

この日のお話会は、

まず、

参加者が自己紹介を行ってから、

21組のペアになり、

対話性について順番に対話をしていく、

という流れで行われました。

 

対話性とは何か、

について、

僕は普段、

考えてはいるものの、

きちんと言葉にはしてきませんでした。

 

また、

対話については、

教科書的な定義はいくつもあると思いますが、

普段、対話をしていて「対話は良いなぁ」と感じている感覚を言葉にしたいなと思っていました。

 

そのような想いを自己紹介の時間に述べ、

対話性についての対話にのぞみました。

 

僕の順番は1番目でした。

 

僕は対話性について、

以前、対話とは何か、

考えるイベントがあった際、

僕は対話とは「向き合う」ことだと思い、

紙に大きく「向き合う」と、

書きました。

 

今でもその想いや印象は変わっていませんが、参加者の方々の話を聴くうちに、

最近色んな対話の場で感じていたことを思い出しながら、

対話や対話性というものに抱いている大切な想いについて、

新しい言葉が浮かびました。

 

それは、

対話とは相手に訴えかけるもの、

という言葉です。

 

最近、色々な対話の場で、

本当の自分とつながる、

自分の内側とつながる、

本当に感じていることを語る、

というような対話の良いところを掲げながら、

それらを名目に、

語っている自分に酔いしれるように自分語りをする人たちの存在が気になっていました。

 

もちろん、

対話の場では、

基本的には何を言っても自由だし、

自分に酔いしれることができるのも対話の魅力の1つだと思いますが、

僕は憤りを感じる部分がありました。

 

1番の理由は、

そのような人たちに、

他者への思いやりや、

他者へ訴えかけるようなものを

感じないことが、

多くあったからです。

 

極端に言えばそれらはモノローグに近いと思うのですが、

少なくとも僕が、

「対話っていいなぁ」とか、

「対話性があるなぁ」と、

感じるようなものではありませんでした。

 

思いやる気持ちと、

訴えかけるようなもの。

 

どちらも対話的なイメージとしては良いものだとは思うのですが、

対話とは、

その場の空気や、

膠着した状態、行き詰まった状況を切り開いていくことに意義があると思っているので、

相手に訴えかけるもの、

という言葉の方が、

対話には相応しいと感じます。

 

訴えかける、

という言葉を見つけて色々と考えているうちに、

チャップリンが主演・監督した『独裁者』の終盤で、

チャップリンヒトラー(劇中の役名はヒンケル)の格好をして演説する有名な場面が浮かんでいました。

 

演説は多くの人々に訴えかけるパフォーマンスなので、

訴求力のある演説は、

対話性のある対話なのかもしれません。

 

皆さんは、

対話や対話性、

対話性のある対話

とは、

どのようなものだと思いますか?

 

この問いは、

これからもずっと問い続け、

深めていきたいテーマだなと思いました。

 

今回は以上です。

最後までお読み下さり、

ありがとうございました。

新・視力矯正日記25 『読書会の感想〜ナラディヴ・セラピーと病名をつけること』

僕は最近、

『会話・協働・ナラディヴ』という本の読書会に参加しています。

 

今回の記事は、

その読書会の令和3521日の回の時のことです。

 

『会話・協働・ナラディヴ』という本は、

「「リフレクティング・チーム」のトム・アンデルセン,「コラボレイティヴ・セラピー」のハーレーン・アンダーソン,「ナラティヴ・セラピー」のマイケル・ホワイト。

本書は,心理臨床・ソーシャルワーク領域で注目を集める「ナラティヴ・アプローチ」の三人の創始者たちが,フィンランド・ハメーンリンナで一堂に会した最初で最後のワークショップの記録である。 」(Amazonの内容紹介より)

という内容の本です。

 

この会では、

主催者であり、

ファシリテーター役のOさんが参加者に文章を読む箇所を割り当て、

それぞれが音読した箇所について参加者が感じたことを声に発して言葉にしていく(=トーキング・サークル)という形で進行していきます。

 

この回で読んだ箇所は、

p.943人の鼎談を聴いていた聴衆の、

「人々が多声的ないし多層的だという考え方を、セラピストとしていかに維持するかということについて考えてきました」

という言葉に対し、

「大事な質問です」

という、

マイケル・ホワイトさんの答えから始まる場面です。

 

僕はその場面を読んだ感想について、

マイケルさんが述べた、

「この若者の反応はすべて、反抗挑戦性障害の診断を立証するものとして読み取ることができました」という発言が嫌いだと言いました。

 

マイケルさんは、

あるワークショップで出会った家族の、

反抗挑戦性障害の診断を受けた15歳の少年について話をしていました。

 

その際に話していたのが上の発言です。

 

僕は精神医療については詳しく分からないのですが、

基本的に、

ある個人に生じている状況に対して病名をつける発想は嫌いです。

そのため、

「この若者の反応はすべて、

反抗挑戦性障害の診断を立証するものとして読み取ることができました」というマイケルさんの発言が嫌いだと言ったのですが、

僕の後の順番の方々の話を聴いていくうちに、

自分の勘違いに気づきました。

 

僕はてっきり、

この15歳の少年の振る舞いを見て、

「マイケルさんが反抗挑戦性障害の診断を立証するものとして読み取ることができ」るとジャッジしたのだと思っていたのですが、

他の参加者の方々の話を聴くうちに、

精神科医など、

ある個人に生じた状況に対して病名を付ける人たちがその少年の振る舞いを見たら、

「「反抗挑戦性障害の診断を立証するものとして読み取る」だろう」、

という意味で上記のような発言をしたのだと思うようになったことです。

 

マイケルさんは、

ある個人に生じている状況に対して病名をつける発想の方ではなく、

むしろ、

「しかし、「これらの反応は、彼の進取の精神に関して、何を表しているのだろうか?」という問いに触れることで、私は、この若者の人生の従属的なストーリーラインを見分ける役割を果たす立場に立つ」と続けているように、

ある個人に生じている状況に対して病名をつける発想、

とは別の道を模索している方のようです。

 

僕はこのマイケルさんが取り組んでおられるナラティブセラピーというものをほとんど知らなかったのですが、

この場面のマイケルさんの発言は、

ナラディヴセラピーの基本的な発想が述べられているのだと思いました。

 

また、

参加者の方も指摘されていたのですが、

「これらの反応は、彼の進取の精神に関して、何を表しているのだろうか?」

という発言について、

精神科医なら「症状」という言葉を使うところを、「反応」という言葉を選ぶなど、

精神医療で使われている言葉を、

ニュートラルな言葉に置き換えているところが素晴らしいと思いました。

 

そして、

この場面での15歳の少年の、

精神科医なら「反抗挑戦性障害」と診断する状況に、

「最著述する会話への扉を開」くものがナラティブセラピーだとしたら、

ナラティヴセラピーは、

とても未来志向で、

可能性のある対話の手法だと思いました。

 

僕には、

「視力矯正の不具合の不具合を抱える当事者と専門家や専門家を志している方々とが主にゆっくりと丁寧な対話を通じて視力矯正の不具合を改善するための活動や研究を当事者研究のような形で行いたい」

という想いがあります。

 

その発想の根底には、

「医師と患者という関係性や、

障害者、健常者という分け方を前提とせず、

何かしら生じた個人の「不具合」に対して病名や障害名をつけることなく、

不具合を抱えた当事者は、

その不具合を抱えた経験や感性を活かして、

医師などの医療の専門家は専門的な技術や知識を活かして、

お互いが対等の立場で、

共に、

その「不具合」を改善していくという問題解決のあり方=新しい医療の形はないのだろうか。」

という問題意識があります。

 

そのような僕の医療に対する問題意識と、

ナラティヴセラピーの理念は、

どのくらい通ずるところがあり、

どのような協働が可能なのか。

 

これからも対話を続けながら、

模索していきたいと思います。

 

今回は以上です。

 

最後までお読み下さり、

ありがとうございました。

新・視力矯正日記24 『ただただお話を聴くこと』

今回は、

僕がよく参加している、

りすにんぐふぁーむさん主催の、

お話会での出来事についてお話しします。

 

こちらの会では、

毎週水曜日の20:0021:30からは、

フィンランド風おはなし会

という、

「「オープンダイアローグ」の「対話実践のガイドライン」の「リフレクティングワーク」を参考にし」たお話会を、

 

毎月第1,2,3日曜日の20:0021:30には、

『お互いにただただお話を聴く会 』という、

「オープンダイアローグ 対話実践のガイドライン」の「リスニングワーク」を参考にし」たお話会を、

それぞれ行っています。

 

今回の記事では、

『お互いにただただお話を聴く会 』に参加した際に気づいたことを共有します。

 

こちらのお話会では、

参加者がブレイクアウトルームに毎回34人くらいの人数に分かれて対話をします。

 

ブレイクアウトルームに分かれて対話をする際、

もう何回か、

こちらのお話会に参加しているため、

同じ方と何度も一緒になることがあります。

 

同じ方と一緒になると、

同じ方の話を何度も聴くことになり、

その人の抱えている悩みや背景について、

知っていることが多くなっていきます。

 

それ以上に、

これは意外な感覚だったのですが、

何度も親密な距離感で話を聴いているせいか、段々と、何度も一緒になる方々を、

好きになっていきます。

 

このお話会は、

一応、

相手が話しているときは聴き手は黙って聴いているのがルールなのですが、

何度も同じ人と対話を行なっていると、

つい、声を出して質問し、

もっと知りたいと思ったことを聴いたり、

気になった部分を深掘りしたくなります。

 

そのような葛藤を、

お話し会の主催者であり、

ファシリテーターの方にお聴きすると、

「黙って話を聴かず、

言葉を発して良いということにすると、

自分の考えを言ってしまったり、

アドバイスをしたくなってしまう。

そうすると、

話し手は最後まで自分の言いたいことを安心して言いづらくなってしまう。

反対に、

ただ黙って話を聴くことで、

話し手は最後まで安心して自分のことを話すことができて、ありのままの自分を承認してもらえたと感じることができる、

だからこのお話会では、

ただただ黙って話を聴くことを練習したい」、

というようなことを、

おっしゃいました。

 

相手が話している途中で声を発してキャッチボール型の対話を行いたいという衝動もありますが、

それを聴いて僕は、

なるほど、と納得しました。

 

日常では、

いくらかのまとまった時間、

自分の話を最後まで黙って聴いてもらえる機会は余りないので、

このような時間は本当に貴重だと、

改めて思いました。

 

皆さんには、

安心して自分が言いたいことを言える環境はありますか?

 

医療の現場、

視力矯正の現場で自分が言いたいことが言える環境を作るヒントになるでしょうか。。

 

今回は以上です。

 

最後までお読み下さり、

ありがとうございました。

新・視力矯正日記23 『オープンダイアローグ・オンライン勉強会第2回の感想』

先日の518()19:3021:30

『オープンダイアローグについて学ぶ〜受けたいときに受けられる場をつくろう〜』の第二回の勉強会に参加しました。

 

サブタイトルは、

「日常に活かす対話の作法〜リフレクティングを知っていますか?〜」

で、

講師の方は、

オープンダイアローグ やリフレクティングなど、

対話の大切さを広める活動をされていて、

プロのカメラマンでもある、

小畑あきらさん です。

 

僕は小畑さんの対話会や読書会によく参加していて、特にトム・アンデルセンという方が産み出したリフレクティングへの深い理解と、

対話の大切さや可能性に対する想いの強さに、

いつも感銘を受けています。

 

この講座は、

講義ブレイクアウトルームでリフレクティング講義ブレイクアウトルームでリフレクティング講義ブレイクアウトルームでリフレクティング講義ブレイクアウトルームでリフレクティング質疑応答という進行で行われ、

参加者同士の対話の時間が多く設けられた、

小畑さんらしい、

対話を大切にした講座となりました。

 

しかも、

質疑応答の時間も、

もう私は充分に声を出したので参加者の質問には直接答えず、

参加者に答えてもらうという形にします、

という徹底ぶり...

 

.......

 

そして、

本編である

講義は、

リフレクティングの説明から始まりました。

 

リフレクティングとは、

「誰かの対話を聞いたり見た後で、〝それについて感想や意見を交わすこと〟を意味する。

自分自身との内的対話も含まれる。

「開かれた対話と未来」p 41訳註より転載」

(講義のパワーポイントより転載)

 

具体的な形としては、

通常の対話では、

話し手と聴き手がいますが、

オープンダイアローグ ではそこに観察者が加わり、その観察者が話し手と聴き手の対話を聴くという形で行います、

と説明されました。

 

僕が印象に残ったのは、

リフレクティングの説明の際に、

話し手の言葉を聞き手や観察者が言葉にする際は、

話し手が使った言葉を使い、

使わなかった言葉を使わないという話しがあったことです。

 

僕はこれまでにリフレクティングを学んだり、

体験する中で、リフレクティングの時間に聞き手や観察者として感想を述べるときは、

話し手が使った言葉や話の内容に縛られることなく、基本的には自由に話して良いと学び、

実践してきました。

 

そのため、

「話し手の言葉を聞き手や観察者が言葉にする際は、

話手が使った言葉を使い、

使わなかった言葉を使わない」

という説明がよく分からず、

その旨をチャットに投稿しました。

 

さらに、

質疑応答の時間に、

「オープンダイアローグ について語られる際、

よく、「問題を解決しようとしない方が問題が解決する」という発想がありますが、

僕は、抱えている悩みである問題を具体的に解決するための対話にこだわりたい、

それについてどう思われますか?」

という質問を加えた上で、

「話し手の言葉を聞き手や観察者が言葉にする際は、

話し手が使った言葉を使い、

使わなかった言葉を使わない」というのがどういう意味か、

尋ねました。

 

前述の通り、

それに対して小畑さんは直接答えず、

参加者の方で答えられる方が答えるという形になりました。

 

参加者の方の答えの中に、

「例えば小畑さんも講義の中で百貨店をデパートに言い換えて答えるという例を話されていましたが、私も自分が言った言葉を別の言葉に置き換えられて返ってきたら嫌な気持ちがする」というものがありました。

 

他にも同様に、

自分の話したことが別の言葉に置き換えられて返ってきたら嫌な気持ちがする、

とおっしゃった方がいました。

 

それらの意見を聴いているうちに、

もしかしたら講師の小畑さんは、

リフレクティングの際に聞き手や観察者は感じたことや考えたことを自由に言ってはいけないと言ったわけでなく、

話し手が言ったことを話す時は、

話し手が使った言葉を使い、

使わなかった言葉は使わない、

と、おっしゃったのかもしれないと思いました。

 

また、

講師の小畑さんは講義の後半で、

「話し手の言ったことを話す時は、

話手が使った言葉を使い、

使わなかった言葉は使わない」

ことを実践すると、

話し手は話を聴いてもらえたと感じ、

次に話をする際に勝手にまた別の話をしてくれる、とおっしゃっていました。

 

僕はそれを聴いて、

なるほど、

と思いました。

 

リフレクティングやトーキングサークルのような話手が話しているうちは黙って話を聴く、

というルールの対話会にいくつか参加しているうちに、相手が話している時に声を出して質問したくなり、その想いをある対話会でお伝えしたのですが、

そのことについて答えてくれた方が、

黙って話を聴いていると、

相手は自分をありのまま受け入れてもらえたと感じ、それは相手の存在をありのまま、

承認するような形になる、

とおっしゃったことを思い出したからです。

 

確かに承認されたと感じると、

そこに安心感を感じ、

次々と話をしたくなります。

 

でも、

やはり、

それだけでは、

僕は物足りなさを感じます。

 

「問題を解決しようとしない方が問題が解決する」

という発想については、

「これまでの医療の世界では、

医師などの医療側が患者と呼ばれる人の問題を治療して解決しよう、何とかしようという発想があったので、そのような解決しよう、何とかしようという発想を手放そうという意味で、

問題を解決しようとしない方が解決する、

という発想が生まれたのではないか?」というような回答がありました。

 

それを聴いて僕は、

なるほど、とは思いながらも、

モヤモヤとするものを感じました。

 

何となく、

そのような発想が広まることが、

具体的な問題を解決していこうという発想、

特にそれらの問題が社会にある場合に、

主体的に、人々が協力して、

それらの問題を解決していこうというを姿勢を養えず、

心の問題に置き換えるという発想に繋がるような気がするからです。

 

そのように考えていくと、

リフレクティングを発明したトム・アンデルセンさんは、

具体的な社会問題を解決することに対して、

どう考えていたのか、

気になります。

 

小畑さんもよくおっしゃっている通り、

トムアンデルセンさんは既に亡くなっており、

どのように考えていたのかは、

究極的には想像するしかないのですが...

 

皆さんはリフレクティングや、

問題を解決しようとすることと解決しようとしないことについて、

どう思われますでしょうか?

 

今回は以上です。

最後までお読み下さり、

ありがとうございました。