新・視力矯正日記⑤ 『病名や障害名など診断名が付く状態と、 付かない状態』

他の症状との比較として、

視力矯正の不具合が辛い状況があります。

 

視覚障害などと違って、

視力矯正の不具合は一つの病気や障害名ではないので、

同じ症状を抱えている人同士で集まることができないという問題もありますが、

本質的なのは、

医療や社会生活を送るための保障やサービスが受けづらいこと、

だと思います。

 

以前僕は医師の方に、

「君は屈折異常もなくて度数を入れれば矯正視力も出ているから問題はないんだ」

 

というようなことを言われたことがあります。

 

そのため、

僕が求めるような視力矯正方法は、

その医師の方の元では試せませんでした。

 

僕としては、

データ的に度数が合っているかどうかも大切だと思いますが、

ただ見えるだけでなく、

視え方の質や、

視力矯正を行なった際の疲労感や頭痛が起きるか、

なども大切だと思います。

 

もちろん、

そのようなことは医師をはじめ、

多くの専門家の方々も承知していることだと思います。

 

本質的な問題は、

「視え方の質や、

視力矯正を行なった際の疲労感や頭痛が起きるか」

どうかという点に不具合があった場合、

それらの具合を丁寧に、繊細に、

改善していくことができない点です。

 

僕はこの点について、

視力矯正の不具合を抱え、

その不具合を改善したいと思って活動していく中で、

芽生えていった問題意識があります。

 

今の医療は、

ある個人に生じた「不具合」に対して病名を付け、医療の知識や技術に基づいてその「不具合」を治療するという形で行われれていると思うのですが、

その現在の医療の形に、

問題があるのではないか。

 

そのため、

「医師と患者という関係性や、

障害者、健常者という分け方を前提とせず、

何かしら生じた個人の「不具合」に対して病名や障害名をつけることなく「不具合」のまま、例えば医師は医療の専門家として、

不具合を抱えた当事者はその不具合という苦労を抱えた専門家として、お互いが対等の立場で共に、

その「不具合」を改善していく問題解決=医療の形はないのだろうか。」

と、いうものです。

 

いきなり医療の形を全て変えるのは難しいとしても、

個人に生じた不具合に対して、

不具合を抱えた当事者と専門家が対等の立場で共に改善していこうという意識で向き合っていければ、

今の医療の形はだいぶ変わってくるような気がしています。

 

例えば、

「君は屈折異常もなくて度数を入れれば矯正視力も出ているから問題はないんだ」

 

と言うようなことを言われてデータ的に問題がなくても、

病名や障害名が存在しなくても、

不具合を抱えた当事者の感じていることや考えが尊重され、

その不具合を改善するために、

お互いに丁寧に話が聴き合えると思います。

 

また、病名や障害が付くか付かないかによって、医療や社会生活を送るための保障やサービスが受けづらくなる、

ということも、

無くなってくると思います。

 

皆さんは、

今の医療の形やあり方に対して、

どう思われますでしょうか?